下山事件(しもやまじけん)とは、1949年7月5日、時の国鉄総裁・下山定則(しもやま さだのり)が、出勤途中に公用車を待たせたまま三越日本橋本店に入り、そのまま失踪、15時間後の7月6日午前零時過ぎに常磐線・北千住駅―綾瀬駅間で轢死体となって発見された事件。松川事件、三鷹事件と共に、国鉄の戦後三大ミステリーの一つとして知られている。
現場を零時20分頃に通過した第869貨物列車によって轢断されたことが判明したが、遺体の司法解剖をおこなった東京大学法医学教室の古畑種基教授が死後轢断であり、死因は局部を蹴り上げられたためのショック死と鑑定した。これに対し現場検証に参加した東京都監察医務院の八十島信之助監察医が、それまでの轢死体の検視(それまでの3年間に100体見ていた)経験から他殺の可能性はないと主張し、更に慶應義塾大学の中館教授が古畑教授の採用した鑑定方法の信頼性が低い事を理由に疑問を呈したため、法医学界を巻き込んで他殺・自殺両説が対立し、真偽は迷宮入りとなった。
警察の捜査では、国鉄総裁就任以来下山が不眠に悩み睡眠薬を常用するほど心労が重なっていたこと、事件の数日前にも国鉄内で放心状態での異様な行動が目撃されていたこと、直前に現場付近を彷徨していた下山らしき人物を付近の住民が目撃している事などから、発作的な自殺説に傾いていた。しかし、古畑教授が鑑定結果による他殺説を譲らず、結論を出せないまま捜査が打ち切られた。
マスメディアにおいても、警察の捜査をスクープした毎日新聞が自殺説を主張し、読売新聞・朝日新聞が古畑鑑定を支持して他殺説を主張して対立した。
現場の状況と、連合国による占領統治中であった事から、米軍CIC(Counter Intelligence Corps―防諜部隊)が関与したとする説(おそらく松本清張の「日本の黒い霧シリーズが最初)のほか、ドッジ・ラインによって国鉄では96,000人もの人員整理が迫られており(下山の不眠はこれが大きな原因だったのではないかと言う説もある)、日本共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や、国鉄労働組合が頑強な抵抗をおこなっていたこともあって、共産党による犯行説も指摘された。松本主張の米軍関与説に関しては、当時の運行表を調べた結果などからほぼ否定されている。
どちらにしても、GHQからのプレッシャーを受けつづけた下山は、その死まで政府によって政治的に利用された悲劇の総裁であることであることだけは確かであろう。
三鷹事件(みたかじけん)とは、1949年7月15日午後9時23分(当時はサマータイムのため現在の午後8時23分)に国鉄三鷹駅構内でおきた無人列車暴走事故。
同駅利用客6人が電車の下敷となり即死している。また、負傷者も20人出ており大惨事となった。
国鉄組合員の共産党員9人と非共産党員1人が共同謀議の犯行だとして起訴されたが、非共産党員の竹内景助に死刑判決をくだし他9人を無罪とし、単独犯行とした。竹内は再審請求したが認められず獄死した。
下山事件、松川事件と並ぶ国鉄三大ミステリー事件である。
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