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[转贴] 日本铁路在二战后出现的重大事件

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发表于 2008-2-3 14:15 | 只看该作者 回帖奖励 |倒序浏览 |阅读模式
1973年  日本上尾事件
http://www.youtube.com/watch?v=gsJGABoziAk&NR

国电乗客暴动 - 1973



70 年代的日本国铁经常出现劳资纠纷, 而国铁职员则采取行动与国铁对抗
(类似采取合法的工业行动, 方法有: 以不正常速度行车, 无理停车等)

而另一方面, 战后的日本经济急剧发展, 出生率急增, 于是就大规模发展住宅用地.
而高崎线大宫以北的沿线人口就因此而激增.
(高崎线上尾站在 70 年代的每日乘降人数已经超越一万人, 现在也是高崎线大宫以北乘降人数最高的车站)

当时的人口急速增长令高崎线不胜负荷, 而且当时上越新干线仍在建设阶段, 仍有不少的夜间长距离列车会行经高崎线
部分从信越方面而来的长距离列车会同高崎线内通勤列车并结行驶, 而 165 系急行系列又不适当地被用作上下班繁忙时间的通勤列车
结果迟到的状况经常出现

同时, 国铁的列车运转士正进行抗议, 令到数千上万的通勤通学客迟到
此外人口不断增长,但国铁因为财政问题没改善过服务质量, 所以当时的通勤列车亦被喻为「痛勤列车」
因此不少人都对国铁感到反感


在国铁职员的抗议同高崎线沿线通勤通学人口不断增长的情况下, 上尾事件 就因此发生.

当时高崎线列车迟14分钟到上尾站1号线, 但月台又有大量乘客等上车
结果这班车无法发车, 同时下一班前桥发的高崎线列车进入2号线, 也是超员状态
两班车改为以大宫站做终点, 乘客因此被激怒, 有人甚至跳落路轨向列车投石
运转士因为人身危险关系逃难到站长室, 过万乘客跟住去"追杀". 开始大肆破坏
比如破坏运转室设备, 向在上尾站站前 300 米停车的とき2号投石等等
有乘客沿路轨行8公里去大宫站再搞破坏, 琦玉县派了五百个警察都无法控制

[ 本帖最后由 公汽联营公司 于 2008-2-3 14:22 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2008-2-3 14:38 | 只看该作者
樱木町事故:1951年(昭和26年)4月24日、东海道本线(通称京浜线、现根岸线)樱木町站发生火灾,死亡106人,伤92人。


洞爷丸事故:1954年(昭和29年)9月26日、青函连络船「洞爷丸」(日本国铁专用船)受台风15号(洞爷丸台风)吹袭而沉没。其他几艘货船「日高丸」、「第11青函丸」、「北见丸」、「十胜丸」也不幸沉没。仅「洞爷丸」号死亡者就达1155人,共计死亡1430人。是世界迄今为止第四大海难。


紫云丸事故:1955年(昭和30年)5月11日发生(出事快船属日本国铁)。死亡166人、受伤122人。其中很多死者都是毕业旅行的小学生和中学生。


三河岛事故:1962年5月3日,东京时间9:37p.m.(UTC+9)国铁三河岛站出发信号机发出红色的停止信号,此刻,一列45辆编成的下行第287货物列车(田端操车场发,水户行),突然通过信号,进入侧线,脱轨,后面的车辆第二卡车撞至下行本线;之后,2117H列车(6辆编成,上野发,取手行)撞向货物列车,2117H头2卡车撞至上行本线;六分钟后,2000H(9辆编成,上野行)进入本站,撞向2117H先头车,2000H(先头车)2117H(头两卡)撞散,2117H有两辆车向仓库冲下去。3辆车冲向筑堤,4辆车脱轨。结果160人死亡,296人受伤。此为国铁战后五大事故之一。

鹤见事故:1963年(昭和38年)11月9日脱轨的货车与邻线电车相撞,死亡161人、负伤者120人。

[ 本帖最后由 公汽联营公司 于 2008-2-4 14:11 编辑 ]
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发表于 2008-2-4 11:27 | 只看该作者
日本国铁消失是什么时候的事情?
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 楼主| 发表于 2008-2-4 13:47 | 只看该作者
原帖由 ID4 于 2008-2-4 11:27 发表
日本国铁消失是什么时候的事情?

1987年日本国铁正式消失
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 楼主| 发表于 2008-2-4 13:52 | 只看该作者
下山事件:
1949年初,日本吉田内阁迫不及待地谋求摆脱“战后状态”而采取紧缩预算的政策,使日本经济在一段时间内出现相当严重的不景气状况。各企业被迫缩短开工时间、拖欠付款、停发工资、裁减人员。1949年6月日本国铁要从60万职工中解雇12万人,国铁工会组织于6月9日以反对裁减工人为开端展开了斗争.东京铁路局以工会领导人违反业务规章为由,给予他们免职处分,引起工人们的愤怒。于是东神奈川支部6月10日开始罢工,蒲田、中野、三鹰等处的司机也加入了罢工行列。但是,国铁总裁下山定则还是于7月4日宣布了第一批被裁减的3万人的名单,并预定隔一天再宣布第二批解雇的9万余人的名单。1949年7月5日下午,下山定则在上班途中乘公务车进入三越日本桥总店,之后失踪,15小时后的7月6日零点过后,有人在常磐线北千住站-绫濑站间发现被货车轧得面目全非的下山定则。此事与松川事件,三鹰事件并称为国铁的战后三大神秘事件
(有自杀和他杀说,但目前为止原因不明)



日本某网站资料
下山事件(しもやまじけん)とは、1949年7月5日、時の国鉄総裁・下山定則(しもやま さだのり)が、出勤途中に公用車を待たせたまま三越日本橋本店に入り、そのまま失踪、15時間後の7月6日午前零時過ぎに常磐線・北千住駅―綾瀬駅間で轢死体となって発見された事件。松川事件、三鷹事件と共に、国鉄の戦後三大ミステリーの一つとして知られている。

現場を零時20分頃に通過した第869貨物列車によって轢断されたことが判明したが、遺体の司法解剖をおこなった東京大学法医学教室の古畑種基教授が死後轢断であり、死因は局部を蹴り上げられたためのショック死と鑑定した。これに対し現場検証に参加した東京都監察医務院の八十島信之助監察医が、それまでの轢死体の検視(それまでの3年間に100体見ていた)経験から他殺の可能性はないと主張し、更に慶應義塾大学の中館教授が古畑教授の採用した鑑定方法の信頼性が低い事を理由に疑問を呈したため、法医学界を巻き込んで他殺・自殺両説が対立し、真偽は迷宮入りとなった。

警察の捜査では、国鉄総裁就任以来下山が不眠に悩み睡眠薬を常用するほど心労が重なっていたこと、事件の数日前にも国鉄内で放心状態での異様な行動が目撃されていたこと、直前に現場付近を彷徨していた下山らしき人物を付近の住民が目撃している事などから、発作的な自殺説に傾いていた。しかし、古畑教授が鑑定結果による他殺説を譲らず、結論を出せないまま捜査が打ち切られた。

マスメディアにおいても、警察の捜査をスクープした毎日新聞が自殺説を主張し、読売新聞・朝日新聞が古畑鑑定を支持して他殺説を主張して対立した。 

現場の状況と、連合国による占領統治中であった事から、米軍CIC(Counter Intelligence Corps―防諜部隊)が関与したとする説(おそらく松本清張の「日本の黒い霧シリーズが最初)のほか、ドッジ・ラインによって国鉄では96,000人もの人員整理が迫られており(下山の不眠はこれが大きな原因だったのではないかと言う説もある)、日本共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や、国鉄労働組合が頑強な抵抗をおこなっていたこともあって、共産党による犯行説も指摘された。松本主張の米軍関与説に関しては、当時の運行表を調べた結果などからほぼ否定されている。

どちらにしても、GHQからのプレッシャーを受けつづけた下山は、その死まで政府によって政治的に利用された悲劇の総裁であることであることだけは確かであろう。

[ 本帖最后由 公汽联营公司 于 2008-2-4 14:35 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2008-2-4 14:24 | 只看该作者
松川事件:

  国铁当局对工会采取强硬措施,撤销了14名工会斗争委员的职务。但基层工会的斗争仍在继续。国铁福岛支部与面临裁减1000多人的东芝松川工厂的工会联合起来共同斗争。1949年7月17日凌晨3时许,日本福岛县境内东北线松川至金谷川路段陆桥转弯处的上行旅客列车脱轨翻车(铁道铁钉被拔出)。司机等3 名乘务人员死亡,旅客30人受伤。次日,吉田茂内阁官房长官增田甲子七未经调查就诬指为工会所为。检查当局遂以列车颠覆致死罪起诉国铁工会会员 10人和东芝松川工厂工会会员10人。
  1950年福岛地方法院初审,判处被告全部有罪,其中10人死刑。1953年仙台高等法院复审,判处17人有 罪,3人无罪。但社会上普遍认为罪名并不成立,工会和被告认为这是检察厅搞政治迫害的一个大阴谋,因此继续进行坚决地斗争。1959年最高法院否决原判决,将该案退回仙台高等法院。1961年仙台高等法院判处全体被告无罪,1963年最高法院予以确认。1970年日本政府只得向原被告支付 7,625万日元的赔偿金。

[ 本帖最后由 公汽联营公司 于 2008-2-4 14:32 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2008-2-4 14:29 | 只看该作者
三鹰事件:1949年7月15日国铁三鹰车站停车库里窜出一辆空车,撞毁了站前的交通岗、建筑物等,造成6人死亡和14人负伤。三鹰电车区检验班的日共党员饭田七三和中野区的司机、日共党员山本文一被逮捕,日本政府接着又对竹内景助等11人提出起诉。1950年6月12日当局以“共同合谋”为由判处3人死刑、2人无期徒刑、1人12年徒刑、2人8年徒刑
三鷹事件(みたかじけん)とは、1949年7月15日午後9時23分(当時はサマータイムのため現在の午後8時23分)に国鉄三鷹駅構内でおきた無人列車暴走事故。

同駅利用客6人が電車の下敷となり即死している。また、負傷者も20人出ており大惨事となった。

国鉄組合員の共産党員9人と非共産党員1人が共同謀議の犯行だとして起訴されたが、非共産党員の竹内景助に死刑判決をくだし他9人を無罪とし、単独犯行とした。竹内は再審請求したが認められず獄死した。

下山事件、松川事件と並ぶ国鉄三大ミステリー事件である。
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