|
岡山臨港鉄道 Encyclopedia
岡山臨港鉄道(おかやまりんこうてつどう)は、かつて岡山市の南部、大元駅と岡山港を結んでいた鉄道路線である。1984年末に廃止された。
目次
1 概略
2 路線
2.1 路線データ
2.2 駅一覧
2.3 沿線
3 歴史
3.1 開業以前
3.2 岡山臨港鉄道開業
3.3 廃止以後
4 車両
4.1 ディーゼル客車
4.2 ディーゼル機関車
5 路線跡
6 関連項目
7 外部リンク
概略
岡山臨港鉄道は太平洋戦争中に敷設された支線(側線と呼ばれる)を前身とする。戦時中に宇野線と岡南(こうなん)地区の工場を結ぶ側線として線路の敷設がはじまり、終戦前後に工事が一時中断していたが戦後に工事を再開し、貨物輸送を開始した。1950年に鉄道を保有する会社の工場が閉鎖されたのに伴い、1951年に県などが出資する岡山臨港鉄道株式会社(現在、株式会社岡山臨港)に移管され、岡山臨港鉄道として開業した。
開業当初は年間65万人の旅客を運び、昭和30年代には岡南地区の工業化が進んだことで貨物の輸送でにぎわった。
その後、岡山市南部にある児島湾を横断し対岸の児島半島を結ぶ道路が開通したことで岡山港までの旅客が減少し、1973年に岡南元町間・岡山港の旅客運転が廃止された。旅客運転は大元・岡南元町間に縮小されたが貨物運転は引き続き行われた。
しかし、その後のモータリゼーションの進行とともに貨物や旅客の利用が減少し、旅客利用者は開業当時の1/3以下、貨物も最盛期の1/3近くにまで落ち込んだ。1984年には国鉄の合理化に伴って貨物輸送がさらに縮小したことで鉄道の存続が困難になり、1984年12月30日に廃止された。
開業から廃止までの33年間で貨物564万トン、旅客1,262万人を輸送した。
路線
路線データ
区間・路線距離(営業キロ): 大元 - 岡山港間 8.1km (大元 - 岡南元町間は 6.6km)
軌間 : 1067mm
複線区間 : なし(全線単線)
電化区間 : なし(全線非電化)
閉塞方式 : (不明)
駅一覧
大元駅
現在のJR宇野線(瀬戸大橋線)・大元駅に併設。
臨港新保駅 → 1960年に岡南新保駅(こうなんしんぼう)に改称。
泉田倉庫
貨物駅のみ。
臨港泉田駅 → 1960年に岡南泉田駅(こうなんいずみだ) に改称。
福田倉庫
貨物駅のみ。
臨港福田駅 → 1960年に岡南福田駅に改称。
臨港藤田駅 → 岡南藤田駅 → 並木町駅に改称
岡南元町駅
汽車会社前駅 → 1960年に南岡山駅に改称。
岡山港駅
沿線
大元駅から 3km ほどまっすぐ南に下り、芳泉高校を過ぎたあたりで半径400mのカーブを左へと曲がっていく。その先からまっすぐ南東へと向かう路線である。
岡山の南部は干拓によって生まれた土地で、泉田を過ぎたあたりから沿線南部は明治時代~昭和時代の干拓地となっている。カーブがあるあたりから先の路線は、当時の築堤近くに敷設されていたようだ。
歴史
開業以前
太平洋戦争中に倉敷絹織(現・クラレ)が岡南地区で工場の操業をはじめ、物資や従業員の輸送が必要になったことから国鉄路線から工場に通じる側線の敷設をはじめた。これが臨港線の前身となった。
1944年 戦時中、岡南地区にある工場を結ぶ側線の工事がはじまるが途中で中断。
戦後に工事を再開した。
1947年2月 大元-沖福島間が完成し、国鉄車両による貨物輸送がはじまった。
岡山臨港鉄道開業
鉄道を管理していた汽車会社が工場を閉鎖したのに伴い、岡山県などが出資して岡山臨港鉄道株式会社を設立し、鉄道を引き継いだ。
1951年4月2日 岡山臨港鉄道株式会社を設立。
1951年8月1日 臨港線が開業。大元-岡山港間の旅客運転を開始。
開業当初は、年間65万人の乗客を運んだ。
昭和30年代に岡南地区の工業化が進み、貨物輸送が増加。
1961年 児島湾の対岸を結ぶ締め切り堤防道路が開通。
岡山港を利用する客が減少したことで、臨港線の岡山港駅までの旅客輸送も減少した。
昭和30年代後半~昭和40年代半ば 貨物輸送が最盛期に。
1973年 岡南元町-岡山港間の旅客運転を廃止。
1972年12月31日に最後の旅客運転を行い、この区間は貨物輸送のみとなった。旅客運転は大元-岡南元町 6.6km に縮小された。
オイルショックとモータリゼーションの波がおしよせる。
1983年 旅客輸送が開業時の1/3以下、19万人程度にまで落ち込んだ。
1984年2月1日 国鉄のダイヤ改正で一般貨物列車を廃止。
国鉄の合理化で一般貨物列車が廃止され、この影響で臨港線の貨物輸送量も激減した。
1984年12月30日 臨港線を廃止。
廃止以後
大元駅から新保付近までが遊歩道化された。
1990年代にJR大元駅一帯の立体化工事が行われれた。
2001年 社名を岡山臨港に変更。
芳泉高校付近から南部に通じる線路跡地の道路工事が終わり、朝夕は混雑している。
2004年 岡山県・岡山市が所有する株式をクラレ・同和鉱業・大建工業に譲渡、純民間企業となる。
車両
ディーゼル客車
臨港線に使用された車両は合計8両ある。開業当初は、3001号、3002号の2両の車両が使用された。その後、他のローカル私鉄で走っていた車両が相次いで臨港線に移籍され、乗客を運ぶ足として後を継いだ。
301、302
開業時から使用した車両である。301は1937年製造、1978年に廃車。302は1933年製造、1970年に廃車。ともに中国鉄道(現在の津山線、吉備線)で使用されたガソリンカーで、その後、国鉄時代を経て、国鉄・幡生工場(下関市)でディーゼルカーに改装され、臨港線に移籍された。初期の色はアズキ色とベージュ色のツートンカラーで、その後、オレンジ色とベージュ色に塗り替えられた。
1003
1952年に宇都宮車両で製造された。常磐炭鉱で使用され、1959年に臨港線に移籍。臨港線廃止直前の1984年10月に紀州鉄道(和歌山県)へ移籍された。1003は炭鉱用に作られた全長が12mしかない特注品の車両で、急カーブの路線でも運行できるため、紀州鉄道でキハ605としてもうしばらく永らえることになった。2000年に有田鉄道へ譲渡。
5001、5002
1937年に日本車両で製造された。はじめ江若鉄道(滋賀県)のキニ12、キニ13として使用され、1960年に大鉄工業で改造された後、臨港線に移籍した。5002は1980年に廃車された。5001は臨港線廃止まで使用され、現在は岡山市内にある岡山旭川荘厚生専門学院に保存されている。
7001、7002、7003
1955年~1958年に新潟鐵工所で製造された。ともに北海道の夕張鉄道で使用され、水島臨海鉄道を経て臨港線に移籍された。7001、7002は1955年に製造され、夕張鉄道のキハ252、キハ253として使用され、水島臨海鉄道時代にはキハ303、キハ304として使用された。その後、臨港線に移籍。臨港線廃止後は、岡山県美作市 (1994年・1995年にF1パシフィックGPが開かれたTIサーキット(現岡山国際サーキット)があるところで有名)の特産品販売所に保存されている。7003は、1958年に製造され、夕張鉄道時代、水島臨海鉄道時代を経て、1978年に臨港線に移籍された。廃止後は岡山市内千鳥町にある保育園に保存され、図書館として利用されている。
ディーゼル機関車
貨物列車牽引用に2両の DD13、入れ替え用に3両の小型ディーゼル機関車が使用された。1970年代末頃には、朝の7時頃と夕方4時頃に長い編成の貨物列車を走らせていた。この頃でも30両ほどの貨車を牽引していた。廃止が近づきつつある時代になると、その編成も次第に短くなっていった。
DD13
自社発注のDD1351と江若鉄道で使用された DD1352の2両。青色の塗装だった。
DB101、DB102、DB103
入れ替え用の2軸の小型のディーゼル機関車。ユーモラスな形をしている。102 は岡山臨港株式会社の本社敷地内に保存されている。
路線跡大元駅
南北に走るJR宇野線が町を分断し、交通の妨げになっていたため、1990年代に宇野線の立体化工事が行われた。JR大元駅も高架駅に姿を変え、臨港線が走っていた当時の面影は残っていない。
大元から新保付近
緑地のある歩行者・自転車専用の遊歩道「臨港グリーンアベニュー」となっている。途中、東西に結ぶ大きな市街地道路が2003年に完成し、旧鉄道跡地には歩行者用のゆったりした歩道橋がかかるなど、今風な風景に変わりつつある。
旧新保駅
遊歩道となっており、復元されたホームが残っている。
新保付近から南の路線跡
道路となっている。市の中心部から南部を結ぶ大きな道路がほとんどないため、日中は車でにぎわっている。
国道30号線付近
国道30号線が立体交差している。近くにある泉田倉庫で貨物列車の入れ替えをするときに長い間踏切が閉じたままになるため立体化されたのだが、立体工事が終わった頃に臨港線は廃止された。鉄道があったことをしのばせる風景である。
カーブ付近
1970年代頃までは、泉田を過ぎたあたりから南部の岡南地区までしばらくの間は広い田んぼに民家がちらほら建ち並ぶ風景が続いていた。その後、急速に宅地化が進み、現在は多くの住宅地や商業・公共施設が建ち並ぶようになった。現在は、道路のゆるやかなカーブがもとは鉄道路線だった面影を残している。
福田倉庫
岡山臨港株式会社本社
ディーゼル機関車 102 が保存されている。
岡山港駅付近
8km のキロポストが残っているそうだ。
関連項目
岡山臨港
岡山市岡南地区
外部リンク
株式会社
岡山臨港 |
|